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概要

70年の航跡

波乱万丈なる近海船の浮き沈み昭和42年に就航した宮豊丸を皮切りにインドネシア航路に数多くの当社近海船が就航した。この頃から近海船の船員採用を積極的に行い、一時は総勢300名を超える船員が所属していた。当時はまだ英語を流暢にしゃべれる当社船員は少なかったが多くの乗組員はインドネシア語を熱心に習得して船上では第二外国語と言われたほどであった。彼らにとっては憧れのハワイ航路ならず、まさしく憧れのインドネシア航路であつた。昭和40年代後半には急速な高度経済成長も陰りを見せ、インドネシア通貨ルピアの大幅切り下げ、オイルショック等により荷動きも激減して慢性的船腹過剰による近海船の未曾有の大不況が到来した。そのような状況の中、当時の運輸省の指導もあり「輸入貨物輸送協議会」(輸協)による近海船建造規制の規約にて新規建造船が自由に許可ならない事態となった。(スクラップ&ビルド制度)この制度によれば輸協の認めた船しか南洋材(ラワン材)は積取りできない条件もつき、それ以外の船は「念書船」と称して近海航路を就航できない状況にまでなった。しかしながら内航船のような厳しい法律や規制はなく、内航船の営業権(のれん)のような売買等が確立した制度ではなかった。さらに当時の厳しい状況に追い討ちを掛けたのが、昭和47年の海員組合のストライキであった。約3か月の長期停船により会社の体力、船員のコスト競争力は著しく低下、当社のみならず多くの国内海運会社にとっても将来の日本人船員雇用のあり方を問う一大事件であった。この事件がその後の円の変動相場制導入と絡み合って当社も近海船でのコスト競争力を急速に失った。昭和50年代には、日本籍船のまま外国人船員との混乗化を経て、昭和60年代初頭には近海船から全面撤退を余儀なくされた原因にもなった。しかし、当社船員の近海航路での経験が、いずれ宮幡丸を始めとする大型内航船への代替配乗及び安全運航に貢献したことも事実であった。近海船とは、下図の近海区域を航行可能な日本籍船のことである。近海区域※備考「遠洋区域」とは全ての海域をいう。荷役風景(昭和40年代初頭)航海中当時はこのような丸太材を甲板上に大量に積載した。28