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概要

70年の航跡

警固屋公園付近。後ろに見えるのは水晶山。昭和14年、「第8宮島丸」竣工。昭和24年3月、「第23宮島丸」進水式。昭和15年、「第10宮島丸」竣工。戦中・戦後の機帆船時代。やがて小型鋼船への転機が訪れる昭和12年(1937)7月、盧溝橋事件が勃発。昭和14年(1939)、第二次世界大戦に突入し、以後、昭和20年(1945)の終戦まで、当社は主に軍需品と石灰石の輸送に従事した。その間、昭和15年(1940)2月に個人企業から株式会社組織に変更、「宮崎産業株式会社」とする。その後、昭和19年(1944)8月、ドロマイト・石灰石の採掘・加工部門を分離し、臼杵市に「宮崎礦業株式会社」を設立。以後、当社は海運業専門となった。終戦後、戦争で疲弊した海運業、造船業の再建を図るため、昭和22年(1947)から国の計画造船が始まった。これは国が海運会社に長期低利の融資を実施し、造船会社に計画的に発注させて船舶建造を促進する制度である。政府が各年度ごとに船種別の建造量や資金量を決定し、適格と判断した船主に所要資金の相当部分について長期低利資金を融資。当社も数回この計画造船に応募したが、融資は叶わなかった。そんな中で、昭和26年(1951)、宝永汽船より汽船(小型鋼船)買い取りの引合があり、「第五博鐵丸」を買船。「宮鐵丸」と改名した。これが当社の買船第1号であり、機帆船(木造船)から小型鋼船への切り替えの大きな転機となったのだった。9