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概要

70年の航跡

津久見の豊富な鉱石に着目した創業者・宮﨑昇が鉱山業からスタート機帆船を建造し、海運業へ宮﨑昇、個人事業として鉱山業を興す。宮崎産業株式会社旧本社事務所、目の前が警固屋港(現在は警固屋公園)だった。昭和12年、宮﨑昇が津久見市の赤八幡宮へ灯籠を奉燈。現在も鳥居のそばに「下関市砿山業宮﨑昇」と記された灯籠が残る。昭和14年、機帆船「第6宮島丸」竣工。戦時中、大半の船舶は徴用されたため、自社の機帆船を建造して輸送にあてた。「山」から「海」へ海運業の歴史が始まった現在、世界の「海」を舞台とする宮崎産業海運株式会社の歴史は、津久見の「山」から始まった。鉱山業を生業としていた創業者・宮﨑昇は、津久見の豊富な石灰石の山に着眼、大正13年(1924)2月、現在の山口県下関市より大分県津久見市(当時、北海部郡青江村)に移住して個人企業の「松江商会」を興し、石灰石やドロマイト、珪石などの採掘事業を開始した。採掘した鉱石は、津久見港でフリーとなった船舶を用船して、輸送販売を行った。昭和9年(1934)2月1日、官営八幡製鉄所が日本製鐵株式会社八幡製鉄所となり、まもなく取引が始まった。これをきっかけに、同社のニーズに応えて、同年7月、初の自社船となる機帆船「第1宮島丸」「第2宮島丸」を建造(機帆船は機関と帆を備えた小型の木造船舶)、海運業の本格的展開へと舵を切ることになった。これらの自社船で津久見から八幡へと石灰石を輸送。さらに、阪神地区の製鉄所へ、積極的に販売網を広げていった。当社海運業の歴史の始まりである。8